舞い散る雪の下 皓皓たる月の下
欺瞞を舞い 策謀を謡う
嗚呼、戦慄を奏でるその指の未だ白き
いずれ薄紅散る赤宴への余興
余興 〜宴の前に〜
見事な満月の夜だった。冬の冴え冴えと澄んだ大気を通して、巨大な真円は惜し気もなく大地に純白の光を振り撒いている。
桜樹と篝火に囲まれた広大な屋敷。その一角で、一人の少年が濡れ縁から月を眺めていた。
夜闇の中、それ自身が燃えているかのような緋色の髪をした少年だ。
小波のような風に乗って、宴の賑やかな声や楽の音が聞こえてくる。それは、遠くはなれた少年には奇妙な潮騒のようにも聴こえたかもしれない。
・・・音に身を任せて物思うには、佳い夜だ。
だが――――・・真に少年の心には、そんな情感に浸る余裕など一片とて無かった。
ただ、不吉なほど白い月を眺める。否、睨み付ける。
瞳には揺れる激情。緋色のそれは、憎悪に暗く輝く焔。
何を想っているのか、何に耐えているのか、まだ朱い唇は切れそうなほど噛み締められている。
稚い小さな手がゆるゆると握り締められていき――――――
「――――・・ッ、おのれ!!」
少年は拳を傍らの柱に叩きつけた。
「なぜ、なぜ、なぜ、なぜ・・・・ッ!」
遣り切れない思いを含んだ鈍い音が連続して響く。その度に、太い柱とまだ柔らかい拳がきしんだ悲鳴をあげた。
激憤。悲痛。怨嗟。懊悩。
溶け合い煮え滾り血流と共に流れ、身体を灼く苦痛に幼い彼はただ耐える。
噛み締める歯の、軋む音。
「・・・ッ如何して!!」
ひときわ大きく腕を振り上げて――――――
「!?」
しかしその手が硬い木柱に打ち付けられることはなかった。何者かが、ぱしっ、という軽い音とともに彼の手首を捕まえたのだ。
「こーらっ、血が出るぞ?」
「ッ!あなたは・・・・・」
軽い台詞に少年の目が見開かれる。よほど意外な人物だったのか。それとも――――
「・・なんです?その格好?」
よほど奇矯な姿だったのか。少年の台詞を鑑みるに、どうやら後者であるらしい。
「え?似合わねえ?
妓女達には馬鹿受けだったんだけどなあ。」
そう言ってケラケラ笑うのは、少年のよく見知った青年だった。
常に愉しげな光の燈る、切れ長の瞳は秘夜の黒。白磁の肌に、端整な顔立ち。纏うのは、書籍、刀剣、舞扇、いずれも自在に操るその才に、月さえ花さえその威に降す風雅さと。
そのままでも十分だが、これで粋な着流しでも着つければ、女達が黄色い声をあげること等間違い無しだろう。実際、彼が今纏っている白羽二重の着流しも細身な身体によく似合っている。
――――――が、嫌でも視界に入らざるを得ないそれ以外が、実に少年の常識では到底推し量れない物だったのだ。
黒髪白肌に、一際鮮やかな鮮彩。
目の前の彼が纏うのは、乱華の散らされた紅の内掛け。
明らかに女方の纏うべき衣。生真面目と言って良い性情の少年には、彼がそれを纏う意図を推し量ることができず、更にそれを彼がそれを何の違和もなく纏う事が理解できず。
ただ、困惑に渦巻く頭を放って、彼の問いに素直に応えるとすれば
「いえ、似合うことは似合ってらっしゃるのですが・・・・」
首を傾げ眉を下げようと、悲しいことに、実際そう答える以外に真実答えはなく。
「そおだろそおだろーっ♪なんかこお、背景に華咲き乱れまくりっ!て感じだろーv
大丈夫だ!俺の見立てではお前もなかなかイケルぞっ!」
ぽんっ、と力強く少年の肩に手を置き、やけに自信たっぷり上機嫌に言い放った、無責任に陽気な酔っ払いに、
「へ、ぇ・・それは・・・
そう、ですか・・・私も似合うんだ・・
それは、果たして喜んで良いこと、なのでしょうか・・・・?」
憂愁に囚われたかの様に、流石に肩を落としてぽそりぽそり、儚く呟く少年。
赤染 絃次、かぞえで十三。紅顔の美少年といって良い。
興に乗った酔っ払い、しかもただでさえ誰の手にも負えない彼の青年をあしらいきるには、いささか幼すぎたようである。
一方そんな哀れな獲物を前に、酔人の所業は止まることを知らず。
「にしてもなんだぁ?こんな灯りもないところで一人なんざ。
おにーさまを置いてくなんて悲しいぞ?」
大仰な、いかにも哀しげ、嘆かわしいとでもいう所作に、少年はなんとか微かに笑みを零し
「呼べば、いらしてくれたのですか?」
「いや、たぶんその時はまだ賭け決着ついてない、つか相手の着衣が残ってたから・・・」
「は・・・・?」
刹那、思考顔面筋共に硬直。畳み掛けるように
「もちろん!勝ったのは俺だぞ?」
握り拳を作り誇らしげな一言。
「いえ、訊いておりませぬが。むしろ何も聞いておりませぬ。」
「つれねぇなー。」
目を逸らしいかにも生真面目な少年らしい受け流しに、くすくすと奇矯な青年は笑い。
脈絡もなく、ふと一言。
「そういや、おまえはもう宴には出ないのか?」
「ッ!!」
何気ないその一言に、脱力していた少年の肩が大げさなくらい跳ねた。
顔は未だ俯いたまま。それでも、少年を取り巻く空気が変わったのを察するのは容易なこと。
「・・・・ええ。若輩者の私に、あの酒気はいささか身に過ぎまする。」
それでもなんとか、声だけは平静を保とうとしたらしいが・・・
「口元引きつってる。ついでに声も掠れてる。」
今さら、特に彼の青年相手ではまったく無駄な足掻きであったようだ。
「―――――――・・・
そんなに悔しいのか?絃次?」
ぽつり。未だ顔を上げない少年に、柔らかな声で青年が問う。
「本家の男児。正式な後継ぎ。
正妻の子と言うだけで、お前から親父殿も皆の期待も未来も―――なにもかも奪っていく赤子が憎
いか?」
慈しみをたたえた微笑。だがその言葉は憎しみを煽るもの。
「・・・あなたは――――あなたこそ、何も感じないのですか?
白也兄様。」
稚い唇に皮肉気な微笑――もしかしたら自嘲かもしれない――を浮かべて、ようやく顔を上げた少年は、面前の異母兄を鮮烈な緋の双眸で睨みつけた。
「“赤”い髪と瞳を持たぬこと。そして母君が色家の出でないという、そんな取るに足らない理由で、 あなたほどの式鬼使いが正式な位階も持たず、碌な式鬼すら持てぬまま。
これでは赤染に飼い殺されていると同じ事ではありませんか?
・・・もし、あの赤子や私――――達腹違いの兄弟達がいなければ、あなたは十二分にこの“赤染”の家を継ぐだけの資格があるのに?」
声を綴る間も続く、遥か遠い楽の音。もはや遠い諧声。風に乗って聞こえてくる、奇妙な潮騒のようなそれは、宴の笑声。
笑みを滲ませた声を吐き出した唇をぎりりと噛み締め、いっそ亡国の音であれ、とさえ思う。
赤染の継嗣、産まれ出で、すぐさま次代の当主と定められた赤子を祝す宴。
危うさを秘めた問いと、それ以上に危うげな眼差しに、しかし青年はただ自然に肩を竦め。
「それはまた光栄だな。
絃次。一族第二位の式鬼使いのお前にそこまで言われちゃあな?
だがま、お前も俺の性質は“理解”できなくても知ってはいるだろう?・・・堅苦しい、面倒くさい
“当主様”なんて俺には向いてねぇよ。
浮雲上等、それなりに好き勝手できる無官の方が性にあってるしな。
それに、俺には端っからンな期待かける奴なんていなかったしー?」
笑いながら、ひらひらと手を振る様は未だに酔人そのもの。
ただ、その声だけが不自然なほど透明。
「だが、お前は違う。」
玲韻。大気に、波紋を投げかける囁き。冷えた大気より清澄とした。
「お前はどうなんだ?
親父殿の寵妾、しかも旧五色の家、“紅緒”の血を引く暦とした色族を母に持ち、その異才も赤染の
秘術も余さず受け継いだお前としては?」
微かに首をかしげる様はまるでお伽噺をせがむ子供のよう。
ひたすら無邪気で、抗いがたい。
「私、は・・・・」
「あの赤子の名前、もう決まってるらしいぜ?
―――『絃一』。親父殿は、もうあいつを後継ぎにする気満満みてえだなぁ?」
「・・・・・。」
絃次。“次”位の字を持つ少年の緋の瞳が揺れる。
それには気付かず、青年はその時の様子を思い出してか、毒のある苦笑を浮かべた。
「見れば分かる。見ただけで分かる。なんの“力”も持たずに産まれた赤子。
けれど、正妻の子。
女狐がせっついたとは言え、本気でアレに家を継がせるつもりたあ―――――まったく、親父殿も焼
きが回ったもんだ。」
気だるげに耳にかかるほどの髪をかきあげる、その拍子に紅の衣から白い腕がのぞいた。
同時に、ふわり、酒の香、が。
「――――・・・わたし、は・・、
ッ!私は、今までどんな事にも耐えてきた。苦鳴の一つとて溢さなかった・・・!
柄を血に染めるまで太刀を振るい、恐れを押し殺して式鬼を御し、血反吐を吐いて鬼に立ち向かい、果ては異腹の兄君方の毒杯すら退けッ!耐えたのは、そうすればこの家で私は私で在れるから!
父上に目を向けて欲しかった。母上の想いを裏切りたくなかった!
私が、この赤染の家を継ぐこと。それが、望んで妾になどなった訳ではない母様への唯一の弔いだと
・・・ッ!
なのに、あの、女狐の子が――――!?」
荒げる声の下、何処か冷たい理性の部分が告げる。若し、才能で劣るならば仕方が無かった。“式鬼使い”としての能力は、その大部分が先天性のものに作用される。如何足掻こうと、茶の瞳の子は鮮赤の瞳の子には勝てぬ道理。
そして、最も“色”の濃く現れた者にこそ当主の座を。それが、永々と護られ続けた、五色の家全てに通ず絶対の掟のはず。
それが。よりによってなんの力の片鱗も見せない凡庸な赤子が。己の上に、つく。
己の座を奪って。
己を消して。
己を、殺して。
「――――ッ許せない!!」
その母が。その父が。その、血が!
酒の香に酔ったか、ついに少年は叫んだ。
濃い異能の血。力在る者。瞬間、やり場のない怒りと憎悪が世界を歪ませ、幼い式鬼使いの周りに火の粉と熱風が渦巻いた。
「―――――憎いか?その赤子が。」
自らを巻き込む烈風を意に介せず、白也―――鬼の跋扈する大陸において、不吉とされる“白”をその名に持つ青年は再び優しい笑みを浮かべた。
「憎い。私から全てを奪うものが。」
暗い、だが透きとおった瞳で少年が答える。
その回答に満足げに口角を吊り上げた青年は静かにその腕を差し上げた。
皓々たる月光、白一色に染まった庭。世界を覆う、酷薄に凍える白雪。災厄と不吉の象徴と断じたその色を、しかし人は美しいと認めないわけにもいかず。
ふと、一彩の世界に朧な異彩。その白を踏み汚す、薄茶の影。
果たして、毒々しい紅の衣の先に示されたのは、一組の親子狐だった。
睦ましげに寄り添い、満ち足りた様子で、そして子狐は、その口に何か赤黒いものを銜えていた。
「・・・?」
異母兄の意図を測りかねて首をかしげた少年は、だが次の瞬間、子狐がくわえているものを理解して愕然とした。
「あれは・・・っ」
「子狐、だなー。ちょーっと毛色が違うから、あの女狐が産んだ奴じゃないと思うけど。」
少年とは対照的に、恬淡と、むしろ楽しげに答えを口にする青年。
「嗚呼可哀想に。
ん?でもまだ生きてるぜ?ギリギリだけど。」
――――・・助けてやるか?
そう青年が笑み混じりに口にするより早く。
『 散らせッ・・・!! 』
ザシュ…ッ!!
声なき声で命じた少年に、彼の忠実な式鬼はその親子狐を微塵に切り裂いていた。
散る。白雪を汚す花弁にも似た鮮赤。
散る。人も獣も変わらぬ命の色。
散る。二匹の狐、解き放たれた激情。
青年の笑みが深くなったことに少年は気付いただろうか。
刹那の後、微かな水音も立てず、雪上に鮮血が降り注いだ。二匹の狐は動かない。ただ、子狐の屍骸に加えられたままの灰色がかった毛玉がときおりぴくぴくと微かに動くだけ。
「うっわー血みどろー。」
緋色の少年がそれを見つめていたのはほんの数秒にも満たなかっただろう。
酒に酔った口調のままケラケラと笑う青年とその先の屍骸に背を向けて、少年は歩き出した。
向かうのは、灯りの先。戻る先は、宴の席か。
血族のただ中へ。
「・・・礼など、申しませぬよ。」
五尺ほど離れた所で、唐突に少年が立ち止まった。
そのまま、振り返らずに続ける。
「――――――・・・あなたは教えたつもりなのでしょう?
私が、どうするべきか。
指嗾する、と言った方が正しいのかもしれませんが。」
凍える氷と、熱い血潮。相反する温度が入り混じった声。
「いんや?
そんな大層な事をしたつもりもねぇさ。」
後半はサラリと無視し、うっとりと白い月を眺めながら青年は答えた。
「別に俺はあの親子狐を殺せなんていってない。自分と重ねろなんていってない。
ただ、お前があれをどうするべきか。どうしたかったのか――――
それを、気付かせてやっただけだ。」
腹の違う、だが同じ種を食い物にしようとした親子をどうしたかったか。
あの凡庸な赤子を自分はどうしたいのか。
青年の言外の意を自身への自問とし、少年はふと目を伏せた。
――――彼とて、本当は分かってはいるのだ。頭の真芯、ひどく冷えたその部分が囁く。血を啜り、肉を喰らうは罪科に非ず。同じ種とはいえ、生きる為ならば弱者は獲物となるが道理。畜生の道理。それは正しく現世の道理。何を責め憤るも筋違い。
しかし、暴き出されたのは身勝手な人の性。
沸騰する感情。連想する、自身が屠られる恐怖。起こり得うる先の骨肉の闘争。呼び起こされる裏切りへの怒り。敗北への嫌悪。自らの犠牲の上に腹を満たす、目も開かぬ異母弟への憤懣、嫉妬。
ふわり、青年から酒の香りが香る。真実の心を引き出すという、朱精果の酒か。
「・・・真にもって、食えない方ですね。
それで?
――――――あなたは、一体何を望むのですか?」
閃く言の葉は白刃よりも鮮やかに。
抉り出された本心に焦慮する事もなく、冷ややかに大兄の本心を探る。少年はすでに“少年”では無かった。
そして、砥がれた刃に応えるは、恬淡軽快明朗たる答え。
「べつに。俺は、ただ宴が好きなだけだ。お前が動けば、楽しいことが起きるだろ?
それに―――――そうだ。
一つだけ、教えてやろう。」
「はい?」
「俺は、お前の味方だ。」
悪戯に、にやりと笑った青年に、思わず少年が振り返った。
「・・・・ 何故、です?」
緋色の瞳は、不審に歪められる前に、驚嘆に見開かれている。
その言葉自体にではない。それを発した青年の、あまりの悪びれなさと闊達さに。
「弟を助けない兄が何処にいる?」
それに返された、やはり人を食ったような答え。
明らかに笑っている声音でそんなことを言われて、果たしてどう返せばいいものか。
彼、赤染絃次は、こう返した。
「信じられませぬ。
誓って約して頂きたい。改めて、私の味方になって下さいますよう。
代わりに、私が当主と成った暁には、私の継ぐ“赤染”の名、それ以外ならばなんなりとも差し上げ
ましょう。」
幼さからは想像のつかない冷たい声で紡がれる、凍てつく言葉。
だが、それも青年の予想のうちに組み込まれていた言葉。
青年は、赤い内掛けの衣の袖で、悟られぬように笑い。
「取引はきっちり、ね・・・・らしいっつうか、ま、お前のそういうところ、好きだぜ?
りょーかい。そうだな・・・じゃあ、代わりに桜の姫さん寄越しな。
その名に違わぬよう、赤く赤く染めてやるぜ?」
「承知いたしました。
・・・信用しますよ、白也。」
ふっ、と薄くと笑うと、いずれ血族を、全ての兄弟達を統べる事を己に誓約した少年は、再び歩き始めた。
月も見ない。雪も、血も亡骸も見ない。ただ、前だけを向いて。
「―――ああ。
あの毛色の違うチビは助けないのか?」
青年がふと思い出したように呼びかける。
「あれは、私ではありませぬ。」
変わらぬ声、変わらぬ歩みのまま。
少年は、やがて彼の視界から消えた。
後に残されたのは奇矯な格好の青年一人。
「・・・おもしろくなりそーだ。
なあ?」
くすり、微笑。自分の名と同じ色をした月に問い掛けると、青年はふと狐達の屍骸を見た。
もうすぐ腐肉を喰らう鳥たちがやってくるだろう。
「また一つ、新しい宴が始まる、か・・・・。」
ふと目を伏せ、浮かぶのは血をあさる畜生。血に狂る畜生。
生に死にと一喜一憂、狂乱。陶酔。命が命を喰らい、死ぬその時まで他の命を貪り続け。それを物思う事すら無く。
ただただ生き急くその様はいっそ醜怪。
――――――されど、それが果たして人とどう違う?
浮かんだ自問に、伏せた目がゆるり、閉じられた。しかしその面に辛苦の歪みは無く。
心中の苦味は酒精で噛み殺せる。憂いは白雪の明るさで掻き消せる。
恨み憎み嘆く時間などもはや自身には残っていないのだ、と。故に、青年は微笑む。
唇を吊り上げ相貌を歪ませ誰よりも麗しく。
・・・そして、酷く楽しげに、それこそ子供のような満面の笑みを浮かべた青年は、少年とは反対の方向に歩き出した。
「さーて、もう一人の主役の方にちょっかいかけにいってくるか!!」
その、災いの宣言を聞いたのは、不吉な色をした月ばかり―――――・・・
■ 終幕 ■